こへ滝



春夏秋冬の恋


七松先輩が卒業なさった。

春の晴れた日、桜の花で裏山は優しく色づいている。池には風が運んできた花弁が揺れて、大層美しい。
私は泣かなかった。泣いてどうなるものでもなかったから。

「じゃあな、頑張れよ!」
「七松先輩もお達者で…」

先輩はついぞ、またな、とは言わなかった。


先輩は時々私を夕方連れ出しては、自主トレーニングだとか言って裏々山や裏々々山まで一緒にランニングさせたものだ。
委員会での騒々しさからは考えられないほど、二人して無言だった。七松先輩の決めた目的地まで黙々と走り、くるりとUターンして、学園まで戻るのだ。

ある秋のはじめのことだった。
いつものように、先輩は私をランニングに誘った。
それは、普段よりも辛いコースで、獣道を行き行き、私は付いていくのに必死だった事を覚えている。

ふと、前を行く人が足を止めた。
「滝夜叉丸!ここだぞ!!」
先輩はランニングの途中で初めて私に声をかけた。
「どうしたのです、進まなくても良いのですか?」
「せんない事を言うなぁ。景色を見なさい」

疲れ果ててはいたがなるほど、先輩が言うように、木々の開けた先には黄色や、それから赤、橙色の葉が、小さな池に浮かんでそれは美しい様相を呈していた。

「先輩に美を愛でる心がおありとは」
日頃の皮肉を混めてやり返すと、彼はなんでもない風に笑った。そして、私の手をとって、冷たい水の中にザブザブと侵入した。
「一体、何なんですか?!」
私はいつものようにヒステリックに叫んだ。水の中は恐ろしいほど冷たく、泣きたい気持ちで一杯になったのだ。

先輩は腰ほどの水位の池の真ん中あたりでようやく止まると、ガタガタと体を震わす私の肩をがっしと抱き、「私とお前だけだ!」と叫んだ。
彼の言わんとすることはよくわからなかったが、私は体を震わせながら、「はい、七松先輩」と返事をした。

「私はお前を好いているぞ、平滝夜叉丸!」
「はい、七松先輩…」

体の下は冷たすぎるほどだったが、私の頬は燃えるように熱かった。
私も、七松先輩を好きだったから。


新緑の季節が過ぎた。
5年生になった私は、以前同様綾部喜八郎と部屋を共にしている。

「おい」
ある日喜八郎は、急に苛々とした様子で吐き捨てるように言った。
「いつまで悲しんでんの、みっともない」
「なんだと?」
「悲しんでいる自分が可愛いんだろう。いつまでもそうやって憐れんでいればいい」

部屋の同居人は、いつにもまして無表情だった。

「でも私は不愉快だ」
「喜八郎、お前何を言ってるんだ?」
「七松小平太先輩だよ」
思いもよらぬ名前が出て、私はキッと彼を見据えた。
「どういう事だ」
「自分で考えれば」
「どういう事だと言っているんだ!」

私が激昂したのを見ると、喜八郎は普段ではあり得ないような感情ー不快感ーを顔面に露に押し出し、バカにするように言った。
「お前だって知っているだろう。七松先輩は、学園中のありとあらゆる奴とねんごろだったのだ…色町に行って女を買いまくっていたし、くのいち教室の奴らとだって関係があったんだ…お前は代用品だ。滝、お前は女の代用品だったのだよ。そんな男をずっと愛して、お前はこれからどうしようって言うの」
「…七松先輩を悪く言うな」
「言うよ。私はむしゃくしゃする。お前をこんな風にしていって…お前もお前だ」
「うるさい!うるさい!アホハチロー!!!お前には何もわからないくせに!知ったような口を聞くな!」
「分かりたくもない!気味が悪い!七松のくそ野郎!ドカス!」

私はその言葉に我慢出来なくなり、喜八郎の頬を打った。
「七松先輩を…悪く言うなっ!」

彼はカッと目を見開いて私を見た。私の方は、気付くと、両の目からは涙がぼたぼたと流れ落ちていた。
午後の光がゆっくりと差し込む室内だったが、部屋の空気は最高に冷えきっていた。
「どうして、あんな奴をかばうの!早くお前に戻れ、いつまでも縛られているなんて…くそ野郎!根性なし!」

「うるさい!うるさい!先輩は、先輩は…」

私を抱いてはくださらなかったのだ…

膝を折って、私は泣き崩れた。

「先輩は、私を愛していると言った。そして、心に在る者は抱けないと、そうおっしゃったのだ…許して欲しい、とも言った。そして、愛しているからこそ、他の者のように、できない、と…だから…」
悔しいと、思わなかったと言えば嘘になる。
詭弁だと、思わなかったと言えば嘘になる。
しかし、疑って何になろう。その言葉を信じる事は、私の愛だった。
しばらく動かなかった喜八郎は、まぁ、だとかはぁ、だとか、よくわからないようなため息を漏らして小さく「ごめん」と言った。
私は頭を振って、涙が頬を流れるままにした。
じっとりとした汗が、背中をつ、と流れていってしまった。


秋が過ぎ、冬が来た。
あれから何度も先輩とランニングした道を、思い出しながら走った。
獣道を行く行く、追った背中はもう居ないのだ。
どこまで行っても、何度行っても、私だけではあの紅葉の溜池には出会う事が出来なかった。
とうとう私は、そこへ行き着こうとする努力を止めてしまった。

「私とお前だけだ!」

七松先輩のあの時の言葉を、私はようやく理解した。
あの時、世界は私たちふたりだけのものだったのに。

もしかしたら、生きている限り、別離はすぐその角で待っているのかもしれない。
外では雪が積もっていた。手がかじかみ、芯は冷え、あの時の体の震えを思い出す。燃えた頬は、すでにもう冷たい。
喜八郎が、もう少し春になれば温かくなるのにねえ。と呟いて、勝手に持ち込んだ火鉢に手をかざした。


私は切るような悲しみの中でしか、自分が生きている…そう、実感できないでいる。