食満と文次郎



それは、数年前の夏休み前。
3年生の食満留三郎は、裏々山まで自主ランニングを行っていた。
それはたいへんに陽射しの強い日で、蝉の声は近くから、遠くから聞こえた。
汗は首から背中へと走り、気が遠くなりそうな中で、彼は担任に言われたひと言を反復していた。

「お前は体力がなさすぎる。そのままでは、野垂れ死にだぞ」

留三郎は、生まれつき病弱なたちだった。


新緑の頃


幼い頃から、よく医者に世話になったものだ。朝から夜から、よく嘔吐して布団に寝かされた。
兄弟と共に外へ遊びに行くとすぐに具合が悪くなるものだから、母親の見える場所で木の板を打って、細工を作って遊んだ。
どうやら両親は、彼が病弱な事も手伝って、少しでも体を鍛えてやろうと留三郎をこの学園に入れるの事を決心したようだった。

思えばこの学園に入ってからも、風邪で寝込んだ事は同室の善法寺伊作よりも多い。
実習の日、組み手をしているといきなり倒れて、それっきり一日起きてこれない事もある。

(情けねえ…)

留三郎は何かにつけて倒れる度、誰にも見つからないように保健室の布団の中で歯痒さに涙を流した。
もっと、強く生まれたかった。両親を、意味も無く恨んだ事だってある。
どうして俺だけがこんな辛い思いをしなければいけないのか。
やる気がないわけではない。サボりたいわけではない。人よりも元から素養のない分、頑張っているつもりだった。

そんな時、保健室の新野先生が、いつもその布団の山のてっぺんをいつも2度だけ、ポンポンと叩いてくれた。

「今は誰も居ませんから」

いつもその感触に、ひどく安心した。
頑張っているのをわかってもらえているような気がして、心からじんわりと何かが広がっていくようだった。布団を被った暗闇の中で、その音は母親のお腹の中のようでもあったし、ずっと幼い頃に聞いた、遠くで聞こえる祭りの太鼓の音のようでもあった。いつも変わらず、おなかの上を2度訪れる感触は彼を優しい眠りへと誘った。

そしてその事が、いっそうのこと、留三郎を惨めにさせるのだった。

(俺は同情されているのだろうか)

彼は、安堵感と同時に押さえきれない自分への怒りで体がカッと燃え滾るのを常に感じた。

(俺は頑張っていると思っているだけで、本当はきっと、頑張っていないのだ。そして、こうやって…いつも、2度叩いてもらう事でそれを正当化しているんだ。努力をしていないのにねぎらってもらう義理はない。甘えさせないでくれ!俺は、もっと強くなりたい。そうやって優しくされると、頑張れなくなってしまう。もう赤ん坊ではないし、鼻をたらしてる一年坊主でもない。こうやって、甘やかされるだけ、俺は堕落していくんだ。そうして、この状況に甘んじている俺が一番いけないんだ。馬鹿野郎。どうして、この布団をはいで自主練習に行かないんだ。体が重いのなんて、きっと気のせいだ。全部俺の精神力がなっていないせいなのだ。全部俺の…)


「クソッ…」
彼がいつもの暗い意識と戦いながら坂道をのぼりきると、視界は急に開けたようになった。
林を抜けたのだ。
裏々山へと抜ける道には、しばらく自然な松林が続いている。そこを越えると、しばらくは視界いっぱいの草原が広がっていた。
留三郎がリズムよく片足を土へ下ろすと同時に、芝が揺れるかすかな気配を感じる。さっきまでは鬱々とした気持ちだった彼も、生まれたばかりの虫たちが、足下をピョンピョンと跳ねているのだと思って嬉しくなる。
さらに、あたりには、ぽつぽつと桜の木も植わっていた。
春には色づいて目を楽しませてくれる桜も、夏には良い木陰になるものだ。息も切れて来た留三郎は、大きな木陰に入って少しだけ休む事にした。

「はあ…はあ……よ、いしょ…」
幹に、汗でしみのできた背中をつけて腰を下ろす。ざわ、と風が走るのが見えた。
もう少し休んだら、ランニングを再開しよう。
腰につけた水筒を取り出して喉を潤していると、ふと向こうから小さな人影が走って来るのが見えた。
人影は段々と大きくなり、それを見知った者だと認識した彼は顔をしかめた。

こちらに走ってくるのは、まぎれも無い3年い組の潮江文次郎だったのである。
留三郎を見つけた文次郎は、手を上げて挨拶した。

「よお、お前も自主練習か」
「あぁ…まあな」

早く行けよ、と留三郎は思った。
前々から、文次郎の事が苦手だったのだ。

潮江文次郎という男は、何かにつけて暑苦しいほどに全力の男だった。
実技も全力、座学も全力、自主練習も全力、委員会も全力。そして、何よりすべてを全力でやってもまだ余りある体力を持っていた。
簡単に言うと、彼は文次郎の体力に嫉妬していた。

「ここは涼しいな!」
「そうだな」

留三郎の気持ちを知ってか知らずか、文次郎は同じように腰につけた水筒で喉を潤しながら、会話を続けようとした。

「お前は夏休み、家へ戻るのか?」
「…お前には関係ないだろ」
「そうだけどよォ」

額の汗をぬぐいながら、文次郎は留三郎の隣に腰を下ろす。
それを見てしょうがなく、彼は級友と話を続けた。

「なんだ、お前は帰らないのか」
「おう、俺は学園に残る!」

文次郎は、気持ちのよい返事をして、ねっ転がった。

「でも、残念だ。お前は残って鍛錬していくと思ったんだがなあ…」
「…?」
「だってよ、お前って俺の好敵手だろ!!」
「はぁ?」

思わず、留三郎は驚きを隠そうともしないで文次郎の顔を見た。

「いつお前と俺が好敵手になったんだよ!」

彼にからかわれているのだと思って、留三郎はついつい、つっけんどんな返事をした。
クラスも、ましてや体力も全く違う自分が、どうして文次郎の好敵手なんかになれるのだろう。
馬鹿にされているのではないか。留三郎は思った。あの保健室での布団の中での気持ちを思い出す。カッと燃え滾るような怒りが、足元から立ち上る。我慢できず、声を荒げて文次郎に言い放った。

「ふざけるな!!!馬鹿にすんじゃねえ…!俺が、いくらすぐに倒れるからって…そうやって…」
「何怒ってんだよ!別に俺は馬鹿にしてなんか…」
「走り込みしてても、すぐにバテちまうし…組み手も持たねえし…根性ねえ奴だって!馬鹿にしてんだろ!!」
「…」
「知ってんだよ…お前だって、どうせ…俺なんか、いくら頑張っても…忍者になれねえ、って…ッ思ってんだろ!」

留三郎はそう言った瞬間、自分の頬を強い力で叩く拳を感じた。

「!!……クソッ、てめえ!急に何…」

「お前を馬鹿にしてんのはお前自身だろうが!!!」

拳を握りしめて、目の前の文次郎が怒鳴った。

あんなにうるさかった蝉の声が、ピタリと止まったように聞こえなくなる。
文次郎の瞳は、純粋な怒りに燃えて爛々と留三郎を睨みつけていた。
それは、今まで見た誰よりも真剣な顔で、彼は不思議な心持ちで目の前の顔を見つめる事しか出来なかった。

「馬鹿にすんじゃねえだと…?それはこっちの台詞だ!!一瞬でも、お前みたいなのを好敵手だって言っちまった俺が馬鹿みたいだろうが!…バカタレ!!俺は知ってんだ、お前が一人。授業が終わった後に、手裏剣投げの練習してる事…!俺が使おうと思ってたランニングコースで、走り込んでる事も!!お前は…」

そこで、グッと彼は言い淀んだ。

「お前は、いっつも俺の前を走ってやがる!ふざけんじゃねえ!!お前が自分を馬鹿にするって事は、その後ろを走ってる俺を馬鹿にしてるのと同じだ!!!俺は…俺は、そんなの絶対に許さねえ…!すぐに今の弱気を撤回しろ!」

ゼェ、ゼェ、と肩で息をしながら、文次郎は他の事と同じように、全力で留三郎にぶつかった。

「なれる、なれないなんて他人が決める事じゃねえ…留三郎…!!お前は…忍者になりたくないのか!!!」

「…お…俺は…」

そこで言葉に詰まり、ふいに留三郎は気がついた。
今まで、悔しいと思っていたのは、彼がものごとを絶対的に他人と比べていたからだった。
皆のようにしたい、皆のようにならなければ。馬鹿にされる、仲間はずれにされる、そう思い込んでいたからだった。
もしかして…大事な事はその事ではないのかもしれない。
文次郎は「お前」と言った。他の者と、ではない。留三郎の事を言ったのだ。
俺は何をしたいのか。俺は、何になりたいのか。

「俺…も」

いや、とさっきとは違う静かな調子で留三郎は答えた。

「…俺は、忍者になる!」

おう、と文次郎が嬉しそうに目を細めた。

さっきのように、ざわ、と風が走る。
疲れていた体には嘘のように力が漲ってきている気がした。
今まで感じていた、級友に対する苦手な意識が不思議と消えている事に驚きながらも、留三郎は晴れ晴れとした気持ちで軽口を叩いた。

「どうせなるなら、文次郎。お前よりずーっと優秀な忍者になってやるからな!」
「なんだと!?さっきはごちゃごちゃ言ってたくせに!」
「…そもそもだな。俺が先にこの木陰に着いてる時点で、俺の方が勝ってる気がしてきたぞ」
「じゃあ何だ、これから裏々山まで競争するか?」
「いいぞ!じゃあ勝った方が今夜のメシおごりな!よーいドン!」
「おい…お前が合図するなんてずるいじゃねえか!!待て!」

わいわいと、小さな影が二つ木陰から飛び出して一目散に駆けていく。
草原に風が走った軌跡を、虫たちが追いかけていった。


おわり